神戸地方裁判所 昭和47年(ワ)406号 判決 1974年5月23日
原告 倉田昭二郎 外一名
被告 兵庫県
主文
原告らの各請求を棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一、当事者の求めた裁判
一、原告ら
被告は、原告ら各自に対し、六一五万八、八三二円及びこれに対する昭和四七年五月二五日から右金員完済まで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は被告の負担とする。
第一項について仮執行宣言。
二、被告
主文と同旨
第二、原告ら主張の請求原因
一、原告らの身分関係
訴外倉田正昭は、昭和四三年四月、兵庫県立神戸高等学校(以下単に神戸高校という。)に第二三回生として入学したものであり、原告らは、右倉田正昭の両親である。
二、修学旅行の計画と実施
1.神戸高校は、学校行事の一環として、昭和四四年度の第二三回生の修学旅行を、次の経過により計画、決定した。
(一) 昭和四二年一一月、兵庫県教育委員会は、「県立学校の修学旅行の計画実施について。」と題した通達を各県立学校に出し、自然旅行の徹底を指導した。
(二) 右指導により、神戸高校は、昭和四三年度から旅行地を、従来の九州方面から野外活動を主とする信州方面へ変更し、昭和四四年度も、前年度と同様に信州方面とし、前年度にはなかつた白馬岳の大雪渓の見学を組み入れた計画を決定した。
(三) 昭和四四年五月二六日から同月二九日までの間、神戸高校の鍬方、平郡、島田、富田信三の四教諭が現地に赴き下検分をし旅行計画を具体化させた。
(四) 同年九月二二日、神戸高校は、兵庫県教育委員会に白馬山麓コースを含む修学旅行申請書を提出し、同委員会はこれを受理、承認した。
2.兵庫県下では、県立高校のうち、一八校が修学旅行を信州方面としたが、神戸高校以外の一七校は白馬山麓コースを避けた旅行計画を立てていた。
3.倉田正昭の属したB班は、次の日程で修学旅行を実施することとなつた。
(一) 昭和四四年一〇月一三日
七時(国鉄大阪駅集合)-糸魚川経由-一七時(細野着)
(二) 同月一四日
七時三〇分(細野発)-八方尾根登山-一四時三〇分(細野着)
(三) 同月一五日
七時三〇分(細野発)-白馬大雪渓下、飯盒炊さん-一四時二五分(細野着)
(四) 同月一六日
八時(細野発)-松本-新島-上高地
(五) 同月一七日
上高地-平湯峠-高山-大阪駅、解散
4.昭和四四年一〇月一三日、神戸高校では、三浦校長以下職員一六名と、A班の生徒二二四名、B班の生徒二三四名が、修学旅行に出発し、同日及び翌一四日は、前記予定のとおり無事に旅行が実施された。
三、雪渓の状況と注意義務
1.雪渓の状況等
白馬岳は、飛騨山脈北部にあり標高二、九三三メートルで南の杓子岳、鑓ケ岳とともに白馬三山とよばれ、白馬岳の長野県側の北股の上部に展開する約二キロメートルにわたる大雪渓は、盛夏でも残雪があり、広大な展望が白馬岳の宝庫といわれ、盛夏にはかなりの登山者が繰り込むところである。
大雪渓はV字型の谷に雪が残り、谷間に沿つて帯状を呈しており、雪渓の重さは雪が固つているので、新雪に比べて、七ないし一〇倍の重さがあり、薄いところでも岩と同様なものである。春、気温が上りはじめると雪が少しづつとけ谷に沿つて流れ、表面は固い雪の固まりとなつているが、雪の下は空洞となり、常に大量の水がゴーゴーと音をたてて流れている。夏になると気温の上昇のみでなく、雨による流雪もあり九月から一〇月にかけて雪渓の厚さは一番薄くなつており、気温が低いときは固つているが、少し気温が上るとくずれ落ちる状態である。そして再び秋から冬になると流雪が止つて新雪が降り古い雪渓の上に新雪が積り固まるということをくり返えしている。
従つて、雪渓の末端は季節によつて谷間を上下し、雪渓は季節によつて全く状態を異にし、盛夏は登山者が多いため地元の危険箇所の指示及び監視も多いが、秋になると登山の専門家しか登らないため、地元の監視も少なくなる。
2.山納、富田両教諭の注意義務
修学旅行は、高等学校の教育活動の一環として行われるものである。教育活動及びこれと密接不離の関係にある生活関係範囲においては、学校の教育及び教員は学校教育法により生徒を保護し監督する義務があり、このことは自由見学中の生徒の行動についても同様である。
神戸高校に勤務する地方公務員である山納義民教諭はB班の引率責任者であり、同富田信三教諭はB班の引率者で事故現場付近の監視責任者であつた。従つて、両教論は、B班の生徒が安全に大雪渓の見学を終えるように保護、監督する義務を負うものである。
神戸高校では、富田信三教諭らが、本件修学旅行の下検分をしたが、雪渓が前記のようなものであるから、同教諭は、引率者としてその危険箇所及び危険状態を充分認識しうるような方法で下検分し、これらを充分認識しておくべき義務があつた。
また、事故前日の一四日は、A班の生徒が雪渓の見学をしたが、同日は空が抜けるように澄みわたり、例年にない程暖かで、雪庇や雪洞の端からとけたしずくがしたたり落ちており雪渓が崩れ落ちるかも知れない危険な状況にあつたし、同日夜、引率教諭らによる反省会が開かれ、その際、A班の引率者からB班の引率者へ、右危険な状況が伝達されていた。
従つて、B班の引率者であつた山納義民教諭及び富田信三教諭は、生徒の生命、身体の安全を期するために、雪渓の見学にあたつて生徒に対し、雪渓は気温等状況の変化によつて危険な場所に変化するものであることを徹底して熟知させ、かつ、単に注意を与えるだけでなく、修学旅行という普段とは異つた楽しい気分にひたり、少なからず浮いた気持になりがちな生徒に対し、現場においては危険な箇所をチエツクし、その部分は特に危険である旨明示し、又、雪渓に近寄らないように生徒の行動を充分監視する等の注意義務があるものである。
特に、富田信三教諭は、雪渓付近の解散地点から上方を監督すべき責任者であつたから、上方を見学する生徒を充分監視できるような場所で、危険な箇所に生徒が近づかないように注意すべき義務がある。
四、事故の状況と過失
1.本件修学旅行が一〇月に実施されるものであつたのに、富田信三教諭らによる下検分は、五月に実施されたので、季節によつて全く状態を異にする雪渓の危険箇所及び危険の状態を認識しうる状態で下検分されたものではなく、従つて、同教諭らは、雪渓の危険箇所及び危険状態について充分な認識をもつていなかつた。
2.昭和四四年一〇月一四日夜、引率教諭らの反省会で、A班引率教諭らから、同日A班が白馬大雪渓を見学した結果、当初計画した白馬尻小屋からでは雪渓の見学ができないとの報告があり、翌一五日のB班は、白馬尻小屋からさらに約五〇〇メートル上方に登つて見学することにした。
3.同月一五日、B班は、午前七時一〇分宿舎を出発し、途中、猿倉で、山納義民、富田信三両教諭は、同所から白馬尻小屋までの山道では落石があるから危険である旨の注意をしたのみで、特に雪渓見学についての注意はしなかつた。
B班は、同一〇時五分頃大雪渓見学地点に到達した。雪渓を前にして、現地のガイド中村孝光から、雪渓の成因についての説明と、雪渓の上に乗つたらひつくり返つて下に落ちて危いから気をつけるようにとの注意があり、富田信三教諭から近づいたりしないようにとの簡単な注意があつた後、同一〇時三〇分まで約二〇分間自由見学となつた。事前の注意が、右の程度であつたので、生徒らは、雪渓の危険を感じることなく見学へと散つて行つた。
富田信三教諭は、解散後かなりの生徒が上方の雪渓に近づき雪洞の中に入つていた状況にあつたのに、これら生徒の行動を監視しなかつた。
記念撮影を先に終つた四組の生徒は、時間的余裕があつたので解散地点から更に上方の雪渓の見学に移つた。八組の生徒であつた倉田正昭と荒木、桐畑、今津の四名は、解散後、解散地点から約八〇メートル上方まで行き、そこですでに雪洞の中に、三、四名の生徒が入り込んで写真を写していたので、これは大丈夫だと思い、これら生徒と交替に雪洞の中に入り記念写真を撮ろうとした。ところが、何故か自動シヤツターが作動しなかつたため、今津がそれを調べにカメラに近寄つた時、突然雪庇(縦、横それぞれ五、六メートル、厚さ約三メートル、重さ約一トン)の雪塊が倉田正昭ら三名の上に崩れ落ちた。
4.そのため、倉田正昭は右前頭部陥没骨折によつて即死、荒木も即死、桐畑は同日午後二時三〇分頃死亡し、倉田正昭らとは別に写真を撮ろうとして近くにいた四組の藤本も右事故によつて負傷した。
5.雪洞は雪渓が下方から次第にとけてトンネルのような空洞となつたもので、白馬付近は、同月一四日朝から例年になく暖かく、雪庇や雪洞の端からとけたしずくがしたたり落ちていた状態であり、同月一五日正午には白馬山麓荘で一八度前後という高温であつたため、雪渓がくずれ落ちたものである。
五、責任
以上のとおり、本件事故は、神戸高校における正規の教育活動の際に生じたもので、山納義民、富田信三は、国家賠償法一条一項にいう公共団体の公権力の行使にあたる公務員に該当し、右両名の職務上の過失によるものであるから、被告は同法条により次の損害を賠償する責任がある。
ところで、右法条にいう公権力の行使とは、国又は公共団体がその権限に在づいて優越的な意思の発動として行う権力作用に限定することなく、広く非権力的作用も包含するものである。
六、損害
1.倉田正昭の得べかりし利益の喪失による損害
倉田正昭は、事故当時満一七年三ケ月で、高等学校卒業後は大学に進学し、大学卒業後は就職稼動する予定であつたから、稼動可能年数は、満六〇年に達するまで三八年間となる。昭和四三年度の男子労働者の平均月間決つて支給される現金給与額は、昭和四四年労働省労働統計調査部編「賃金センサス」第一巻第一表によれば、五万八、〇〇〇円である。倉田正昭の収入は、右賃金を下まわるとは考えられないから、その生活費を収入の五割として差引き、残金をホフマン式計算方法によつて中間利息を控除して計算すると、次のとおり七三一万七、六六四円(円位未満四捨五入)となる。
58,000×1/2×12×20.9703 = 7,317,664
右金員は、倉田正昭の得べかりし利益の喪失による損害であり、原告らは、父、母としてこれを相続したものであるから、各自の相続分に応じ右金員の二分の一の三六五万八、八三二円を相続により取得した。
2.原告らの慰藉料
倉田正昭は、原告らの一人息子であり、同訴外人の将来を唯一の楽しみとして教育して来たが、最愛かつ前途有望の一人息子を失い、精神的苦痛は筆舌にあらわしがたく、これを慰藉するには各原告につき二五〇万円を下らない慰藉料をもつて相当と考える。
3.よつて、原告らは、各自、右金員の合計六一五万八、八三二円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である昭和四七年五月二五日から完済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
第三、請求原因に対する被告の答弁及び主張
一、請求原因第一項の事実、第二項のうち1、3、4の事実、第三項のうち、修学旅行が高等学校の教育活動の一環として行われるものであること、山納義民、富田信三の両名は、教諭として神戸高校に勤務する地方公務員であつて、B班の引卒者であつたこと、事故前日の一四日は、A班の生徒が雪渓の見学をしたこと、同日夜引率教諭らによる会合が開かれたこと、第四項のうち本件修学旅行が一〇月実施されるものであり富田信三教諭らによる下検分が五月に実施されたこと、4の事実、本件事故当時倉田正昭は満一七年三ケ月であつたことは何れも認めるが、その余の事実は争う。
二、本件修学旅行の目的、性格
1.神戸高校では、本件事故の前年である昭和四三年度から従来の観光的色彩の強い修学旅行から高等学校の生徒として新しい修学旅行のあり方を求めて、信州方面での野外活動を主とした修学旅行が行われるようになつた。信州方面への修学旅行は本件事故のあつた昭和四四年度は第二年目で、その翌年以降も本件事故現場である白馬尻で雪渓の見学が行われ、コース自体は決して危険の伴うものではなかつた。
2.本件修学旅行は、信州の山岳地帯で規律ある集団野外活動を実施して自己を練磨し、平素学校のホーム・ルームではとかく形式的に陥りやすい教員と生徒、生徒同士の対話、心の触れ合いを大自然の中における民宿という形を利用して行ない、バランスのとれた人間作りをしようという意図のもとに行なわれた。
3.計画は、前年の修学旅行が終つた時点から始まり、その成果を検討したうえ、関係機関から資料を収集し、五月二六日から二九日までの間、生徒を引率する教諭である富田信三ら四名で旅行コースを実際に廻つて下検分し、綿密周到な検討を加え、出発の日時を現地の専門家と打合せて天候がもつとも安定し、雪渓が一番やせて後退している時期を選んだ。
4.事故当日の予定は、朝細野の宿を出発し、バスで猿倉まで行き、そこから徒歩で長走沢を経て白馬尻に至り、そこから雪渓を見学した後、長走沢に戻り、飯盒炊さんをして細野に帰るというものであつて、計画自体決して危険なものではなく、教員の指示さえ守つておれば事故は発生しなかつたのである。
三、雪渓の下検分及び見学の打合せ等
1.白馬大雪渓見学についての下検分に際しては、現地の地形と予定コースの事情に精通し、雪渓の状況についても豊富な知識と経験をもつて地元のガイド(北アルプス北部山岳遭難救助隊員)中村孝光の案内で、雪渓見学にもつとも適した時期、見学に際して注意すべき事項、旅行コースの安全性等あらかじめ予定していた調査事項について詳細に聴取し、資料を収集した。それらをもとにして検討した結果、雪渓の一番安定した時期を選んで旅行を行なうこととした。なお、現地の状況を把握し、綿密に検討して準備体制を整えて一〇月に修学旅行を実施するためには少なくとも五月に下検分をしなければならなかつた。
2.昭和四四年一〇月一三日、細野に到着した日の夜、全引率教員は、本部五竜館に集まり職員会議を開き、中村孝光から現地の状況を聞き、それに基づいて一四日の日程と行動を打合せた。一四日の夜も右同様職員会議を開き、同日、A班の生徒を引率して雪渓の現況をつぶさに検分した三浦校長、鍬方学年主任、富田信三教諭らから雪渓の危険性等につき、詳細な報告を受け、注意事項を確認した。
細野における野外活動において参加生徒の安全を確保するため、一四日、一五日両日とも、八方屋根の登山には島田教諭を、白馬大雪渓見学、飯盒炊さんには富田信三教諭を指揮者にあてて万全を期した。
四、事故当日の行動と生徒に対してした注意等
1.神戸高校では、修学旅行に出発する前に、「フオツサ・マグナを行く。」と題する旅行の手引書を作成、詳細な実施計画と注意事項をこれに記載し、参加生徒に配布して周知徹底させた。
2.事故当日である昭和四四年一〇月一五日午前六時二〇分頃、倉田正昭の属する二年八組と三組は、宿泊していた宿舎「広元」前庭で朝礼を行い、その時、富田信三教諭は、生徒に対し、飯盒炊さんに関する説明とその日の行程が軽登山ではないから、足もと、石くずれに注意するよう促がしたほか、雪渓の危険性について注意した。
その後、宿舎内で朝食前、網中英司教諭は、当日の予定と注意事項を告げ、教員の指示に従うよう伝えた。
3.同日午前七時二〇分頃、細野の松本電鉄バス駐車場で、B班(二年四ないし八組)の生徒に対し、富田信三教諭は、当日の雪渓見学の予定に関し、繰り返えし前記2記載と同旨の注意をし、引率教員とガイドの指示に従うよう注意した。
4.猿倉へ向う途中、八組が乗つているバスの中で、富田信三、山納義民両教諭は、猿倉でする注意事項を徹底させるための打合をすると共に、生徒に対し、宿舎で受けた注意事項を各自確認し、行動をするように注意した。
5.同日午前八時二〇分頃、猿倉に到着し、猿倉荘前の階段の下に生徒は組ごとに整列し、富田信三教諭は、特に強く、また充分時間をかけて生徒に対し、雪渓見学及び飯盒炊さんは決してリクレーシヨンではないので、安易な気持であつてはいけない、と注意し、続いて、前日夜の職員会議で、同日雪渓見学を終えたA班の報告を参考にして決定していた次の三点の注意事項を強調した。
(一) 道路の状態が悪くすべりやすいので足もとに十分注意すること。
(二) 河原の石がくずれやすいので石の端に乗らないように注意すること。
(三) 雪渓は危険であるから決して近よつてはならないこと。
山納義民教諭は、富田信三教諭の側に立つて、メモを見ながらこれを確認した。
6.引き続いて同所で、山納義民教諭は、富田教諭の注意事項を守つて事故のないよう十分注意せよ、と念をおした。
7.長走沢に到着したとき、そこから上方への登山は希望者だけとし、体の具合の悪い者一名が山納義民教諭とともにそこにとどまつた。
8.同日午前一〇時頃、B班の生徒二三三名は、当初から予定していた白馬尻小屋上方約五〇〇メートルの雪渓見学地点(前日一四日にはB班も同所で見学した)に到着し、同所で全員を整列させ点呼をした後、生徒全員をすわらせて、ガイドの中村孝光から雪渓の成因、危険な状況等について詳細をきわめた説明があり、雪渓は解散地点付近でよくその状況が見える、雪の上に乗つてはならない、近づいたり石を投げたりしてはならない、等と注意があつた。
9.引き続いて富田信三教諭は、解散地点(集合地点)付近で見学し、集合の合図がわかる範囲の所にいるように、集合地点の見えない所や遠くへ行くな、雪渓には乗るな、近づくな、石を投げるな、等と重ねて雪渓見学に際しての注意をした。そのあと、午前一〇時三〇分まで、休憩及び見学のため解散した。
10.解散後、富田信三教諭は主として解散地点から上方を、小玉教諭は主として解散地点から下方を、平郡、村上、丹生の各教諭は主として解散地点から中央の方を、ガイドの中村孝光、交通公社職員二名は全体を、それぞれ監視し、万全を期した。
五、事故発生の状況等
1.倉田正昭ら生徒四人は、解散後、解散地点から更に約八〇メートルないし一〇〇メートル上方に登り、道路に多数の岩が散在していて解散地点から見通しのきかない地点で、登山道路から河原に沿つて約四メートルかけ降り雪渓が空洞になつている雪庇の下に入り込み、雪洞を背景に写真撮影をしていたが、午前一〇時三〇分頃、突然頭上の雪庇が雪塊となつて崩れ落ち、その下敷きとなり、倉田正昭は死亡したものである。
2.事故現場は、山の斜面を流れた雨が河原の雪渓の下に流れ込み、登山道路から三段になつて約四メートルの落差があり深い雪洞になつている。成人に近い高等学校の生徒として自然現象の危険を避けるため通常の注意力を用いれば、到底入洞の危険を侵すことをしない場所であつた。
3.本件見学は、決して危険なものではなく、引率教諭やガイドの注意は前記のとおりであり、倉田正昭は、当時高校二年生、満一七年三か月であつて、通常の自然現象の危険性を理解し、又、注意事項を守る能力を備えていたのであるから、右注意事項に留意し、通常に行動すれば、事故は防げたのである。事理の弁識能力を充分に備えている右の年令の者に対する注意としては前記の程度であつて、注意義務に欠けるところはない。しかるに、これを無視して、あえて危険な雪渓の雪庇の下に入り込んだもので、本件事故は、倉田正昭の過失によるものといわなければならない。
六、「公権力の行使」について
国家賠償法一条にいう「公権力の行使」とは、国又は公共団体の優越的な意思の発動である作用をいうものと解すべきである。
本件修学旅行は、学校内では経験することのできない学習活動をし、集団行動により規律ある生活態度ないし習慣を身につけるとともに、公衆道徳などについて望ましい体験をするため、高等学校の教育活動の一環として行なわれたものであり、その本質は、生徒の教化育成であつて、生徒を支配する権力の行使を本質とするものではないから、いわゆる非権力作用に属する。
とりわけ、本件事故は、見学の自由行動中に生徒の不注意により発生したものであり、教員が教育のために生徒を支配している関係のもとに発生したものではないから、「公権力の行使」にあたつて生じたものということはできない。
七、損害額について
仮に被告に損害賠償の責任があるとしても、その額を決めるについて、次の事項を斟酌すべきである。
1.校長をはじめ引率教員らは、次のとおり倉田正昭の救助及び慰霊に誠意を尽したのであるから、原告らの慰藉料の額の算定にあたつて考慮されるべきである。
(一) 事故発生と共に、富田信三教諭らは、現場に駆けつけ、崩れ落ちた十数箇の雪塊を取り除き、医師の救援を手配し、付近で作業していた人夫にも救援を求め、救出作業をした。救出した倉田正昭はすでに絶命していたようであつたが、他の生徒のセーターで身をくるみ名を呼びながら懸命に手や足をさすり、医師、現地救援隊を待ち、事故に会つた他の生徒にも人工呼吸をする等適切な応急措置をとつた。
(二) 修学旅行の団長であつた三浦校長は、非常事態に対処するため宿舎五竜館に事故対策本部を設け、引率教員に対し救出に万全な措置をとるよう指揮し、諸対策を講じ、又、県教育委員会は、事故対策本部を設置し、その職員二名を現地に派遣し、事故対策に従事させた。
(三) 現地救援隊の先発者、栗田邦一医師、看護婦、警察官、救援隊が到着し、救援等の措置をとつたが、倉田正昭に対する医師の診断は、ほぼ即死とされた。
(四) 富田信三教諭は、救援隊一一名、医師、検死官と共に倉田正昭ら三人の遺体に付添い、午後五時三〇分頃下山を始め、同八時三〇分頃猿倉荘に着き、遺体を清め、制服に着換えさせ、納棺した。
(五) 遺体が安置された五竜館において僧籍をもつ丹生勇雄教諭の読経のうちに引率教員全員で通夜を行なつた。
(六) 翌一〇月一六日には、五竜館で、遺族をはじめ、三浦校長、引率教員、生徒全員の参列のもとに、しめやかに慰霊祭を行なつた。
(七) その後、倉田正昭の遺体は、家族とともに、都筑、大野両教諭、交通公社職員一名が付き添つて霊枢車で神戸の自宅に帰つた。
(八) 一〇月一七日、原告ら宅で葬儀を行い、学校全職員及び生徒が参列し、哀悼の意を表した。
(九) 一〇月二〇日、神戸高校では、追悼の意を表するため同校体育館で倉田正昭ら三名の合同慰霊祭を行い、全職員及び生徒は、できるだけ立派に、できるだけしめやかに心を配り、二千数百名が参列し厳粛のうちに進められた。
(一〇) 初七日、三五日などの回忌に学校関係者が慰霊に原告ら宅に赴き、原告らの弔慰に努めた。
2.原告らは、兵庫県、学校職員、育友会、同窓会及び生徒の父兄らから香典、見舞金として四七万七、〇〇〇円、旅行保険金五〇万円、日本学校安全会法に基づく死亡見舞金三〇万円及び供養として一万五、〇〇〇円、合計一二九万二、〇〇〇円の金員を受領しているから損害額は滅額されるべきである。
3.又、前記のとおり倉田正昭の行為には過失があつたのであるから、原告の損害額は相殺されるべきである。
第四、証拠<省略>
理由
第一、原告らの身分関係について。
訴外倉田正昭が、昭和四三年四月、神戸高校に第二三回生として入学したものであり、原告らが、右倉田正昭の両親であることは当事者間に争いがない。
第二、本件修学旅行の計画と実施について
一、神戸高校が、学校行事の一環として、昭和四四年度の第二三回生の修学旅行を、次の経過により計画、決定したことは当事者間に争いがない。
1.昭和四二年一一月、兵庫県教育委員会は、「県立学校の修学旅行の計画実施について。」と題した通達を各県立学校に出し、自然旅行の徹底を指導した。
2.右指導により、神戸高校は、昭和四三年度から旅行地を、従来の九州方面から野外活動を主とする信州方面へ変更、昭和四四年度も、前年度と同様に信州方面とし、前年度にはなかつた白馬岳の大雪渓の見学を組み入れた計画を決定した。
3.昭和四四年五月二六日から同月二九日までの間、神戸高校の鍬方、平郡、島田、富田信三の四教諭が現地に赴き下検分をなし旅行計画を具体化させた。
4.同年九月二二日、神戸高校は、兵庫県教育委員会に白馬山麓コースを含む修校旅行申請書を提出し、同委員会はこれを受理、承認した。
二、倉田正昭の属したB班が、次の日程で修学旅行を実施することとなつたことは当事者間に争いがない。
1.昭和四四年一〇月一三日
七時(国鉄大阪駅集合)-糸魚川経由-一七時(細野着)
2.同月一四日
七時三〇分(細野発)-八方尾根登山-一四時三〇分(細野着)
3.同月一五日
七時三〇分(細野発)-白馬大雪下、飯盒炊さん-一四時二五分(細野着)
4.同月一六日
八時(細野発)-松本-新島-上高地
5.同月一七日
上高地-平湯峠-高山-大阪駅、解散
三、昭和四四年一〇月一三日、神戸高校では、三浦校長以下職員一六名と、A班の生徒二二四名、B班の生徒二三四名が、修学旅行に出発し、同日及び翌一四日は、前記認定のとおり無事に旅行が実施されたことは当事者間に争いがない。
第三、本件修学旅行の目的等について
成立に争いのない乙第六、第七号証、証人山納義民、同富田信三の各証言を総合すると、神戸高校が、野外活動を主とした信州路への修学旅行を実施することとしたのは、山岳地帯での集団活動により質素剛健の精神を養い、グループ行動をとおして自重自治の精神を体得することを目的としたものであつて、そのため、旅行前のホーム・ルーム、旅行中の集会等の機会を通じて、生徒に対して、修学旅行は、観光旅行やレクリエーシヨン等ではなく、研修旅行である旨を説明し、認識を深めることに努力していたことが認められる。
第四、注意義務について
公立学校の教員は、学校教育法等の法令によつて、生徒を保護し、監督する義務があることはいうまでもなく、この監督義務は、学校における教育活動及びこれと密接不離の関係にある生活関係の範囲に及ぶものである。
本件修学旅行は、神戸高校における特別教育活動として行われたものであり、これは正規の教育活動に含まれるものであると解され、これを計画、実施するにあたつては、神戸高校の教諭であり、引率者であつた山納義民及び富田信三(この事実は当事者間に争いがない。)は、職務上当然に生徒の生命の安全について万全を期すべきであり、白馬大雪渓の下検分、見学にあたり、危険の状態、危険の箇所を充分に把握し、生徒にもこれを理解させ、これに近づけないようにすべき注意義務のあることは勿論である。
右義務は、生徒を一時休憩のため解散し、自由に雪渓を見学させる場合でも免除されるものではなく、解散に際しては、生徒に単に危険の状態等について注意するのみでなく、生徒の行動について充分に監視し、事故の発生を防止しなければならないものである。
しかし、右義務の内容は、小学校又は幼稚園の児童又は園児のように心身の発達が未熟で判断能力の低い者に対するそれと、成人に近い判断能力を有するまでに心身の発達している高等学校の生徒に対するそれとでは自ら差異があると解すべきである。
通常、満一五年ないし一八年(倉田正昭が本件事故当時満一七年三ケ月であつたことは当事者間に争いがない。)に達している高等学校の生徒の心身の発達の程度は成人に近いものがあり、自己の行為により如何なる結果が生じ、如何なる責任を負担するかの判断能力も成人のそれに近いものがあり、このような能力のある年令に達している生徒には、自主的に自己の行為を規制し、責任をもつて行動することを期待しうるものである。従つて、これら生徒を引率する教員は、右のような能力に達していることを前提とした適切な注意と監督、即ち、右のような能力を有している者が通常の行為をなす場合においても、なお生命身体に危険が発生することが客観的に予測される場合に、それに応じた事前の適切な注意と監督を為すべき義務があると解するのが相当である。
第五、国家賠償法の適用について、
国家賠償法一条の「公権力の行使」とは、狭義の国又は公共団体が、その権限に基づき、優越的意思の発動として行う権力作用のみならず、国又は公共団体の行為のうち右のような権力作用以外の非権力的作用(国または公共団体の純然たる私経済的作用と同法二条の公の営造物の設置管理作用を除く。)も又包含されるものと解する。
従つて、山納義民、富田信三の両名が教諭として神戸高校に勤務する地方公務員であり、B班の引率者であつたことについては当事者間に争いないのであるから、本件のように学校の教育活動の一環として実施された修学旅行中に生じた事故についても同法の適用があるものと解すべきである。
第六、本件修学旅行の実施と事故について
そこで、本件修学旅行における雪渓見学の実施と事故の状況について考えて見る。
成立に争いのない甲第三ないし第五号証、第六号証の一、二、乙第一号証、第四号証、第六、第七号証、第一一号証、今津正志が昭和四四年一〇月一五日事故現場を撮影した写真であることに争いのない甲第七号証、弁論の全趣旨により兵庫県教育委員会学校教育課津田指導主事が昭和四四年一〇月一六日事故現場を撮影した写真であると認められる乙第一三号証、証人今津正志、同山納義民、同富田信三、同中村孝光、同松岡敏康、同三沢卓海、同蟹沢馨、同藤本悟の各証言及び検証の結果を総合すると、次の事実を認めることができる。
一、白馬岳の大雪渓は、白馬岳と杓子岳との間の谷で、標高一、六〇〇メートルないし一、七〇〇メートル付近に雪崩が積み重つてできたもので、夏場には数万人の登山客が訪れる。雪渓は、春から秋にかけて、主として、下を流れる雪どけ水と降る雨で、崩壊し、一、二キロメートル後退するが、その年によつて状況は同一ではない。一〇月頃になると、夜から朝にかけて温度が下つて雪は凍るので日中の気温の上昇は雪のとけることにあまり影響はない。
従来、雪渓での事故は、落石や、雪の上ですべつて、末端まで落ちたり、亀裂に落ちたりすることはあつたが、救助隊員らは、雪渓末端の雪洞の中に入つて雪庇が落ちたという事故の救助作業に従事したことはなく、最近このような事故がなかつたのは、雪渓の末端は薄く、雪洞となつていて、見るからに危険であるため、そこに入る者がないからであると考えられる。
二、神戸高校では、昭和四四年五月二六日から同月二九日までの間に、富田信三ら、四名の教諭によつて現地の下検分をした(この事実は当事者間に争いがない。)が、大雪渓の下検分に際しては、長野県条例により山案内人の資格を有する中村孝光と共に大雪渓の一〇月に行くであろうと予想される地点まで行つて、雪渓の成因や危険性について話を聞き、雪渓は、その年によりその時期によつて異ることの説明を受け、又、雪渓の末端が雪洞となつているのも見て、右中村から雪渓に近づいたり、上つたりしてはならないこと、五月と一〇月とでは雪渓の状況が違うこと、を強調された。
富田信三教諭らは、下検分の際の雪渓の状態を、そのまま修学旅行に来る一〇月中旬の雪渓の状態として観察し、認識したものではなく、下検分の際の状態を見学の際の、服装、集団行動の要領等の参考としたものである。
三、右下検分の後、神戸高校では、修学旅行の計画を具体化し(このことは当事者間に争いがない。)、山案内人中村孝光、その他の関係機関と連絡をとりながら、旅行のしおり「フオツサ・マグナを行く」を編集、ホーム・ルーム等の機会を利用したり、又、特に、修学旅行実施のための集会を開き、日程、要領その他の注意事項が生徒に徹底するようにしたが、従前の物見遊山的な旅行ではなく、自然活動(野外活動)を中心とした研修旅行であることを強調し、危険なことはしないで無事旅行を終るようにと注意をしていた。
四、昭和四四年一〇月一三日、修学旅行の一団は大阪駅に集合し、同日午後五時頃長野県北安曇郡白馬村細野に到達し(このことは当事者間に争いがない。)、入村式の後、生徒は各宿舎に分散し、同夜、三浦校長、中村孝光、その他引率教諭らによる打合会を開き、中村孝光から雪渓の状況の説明を受け(中村孝光は当日、事前に雪渓の様子を見に行つて来た。)、翌一四日の日程、注意事項等を打合せ、確認した。
翌一四日は、三浦校長、富田信三教諭らの引率するA班は、白馬大雪渓の見学と飯盒炊さんを無事に終え、同夜も、中村孝光を含めて打合会を開き(一四日にA班の生徒が雪渓を見学したこと、同日夜引率教諭らによる会合が開かれたことは当事者間に争いがない。)、三浦校長から雪渓の危険であることについての説明と、生徒を雪渓の末端に近づけるなとの指示があり、当日、雪渓を見学して来た富田信三教諭は引続いて翌一五日にもB班を引率して雪渓の見学と飯盒炊さんをすることとし、生徒に注意すべき事項数点を確認し、なお、雪渓は、例年よりも残雪がすくなく、白馬尻小屋からは見学できないので、さらに上方に登り雪渓の下端の下方から見学することとされた。
五、昭和四四年一〇月一五日は、倉田正昭(八組に所属していた)の属するB班は、白馬大雪渓の見学と飯盒炊さんをする計画にあつた。
当日、起床後の朝礼の際及び食事の際に、富田信三教諭らから八組と三組の生徒に対し、その日の日程等について説明すると共に、危険なことはしないように、引率者の指示に従うようにとの注意がなされた。午前七時一〇分過ぎ頃、白馬村細野の松本電鉄バス駐車場でB班の生徒全員が集合した際、富田信三教諭から、その日の日程を説明し、遊びではない、危険なことはしないように、引率教員やガイドの指示に従うようとの注意がなされた。猿倉へ向う途中、八組のバスの中で、富田信三、山納義民両教諭は、猿倉荘の前で生徒にする注意事項の打合せをした。
六、同日、午前八時三〇分頃、B班は、猿倉に到着し、生徒を猿倉荘前の広場に整列させ、富田信三教諭は、当日の日程は軽登山や物見湯山ではないこと、引率者の指示に従うべきことを注意し、特に、前夜、生徒に注意すべき事項として打合せていた次の三点を強調した。
1 道路の状態がゆるんでいてすべりやすいので足もとには十分注意すること。
2 河原の石が動きやすいので石の端に乗つたりしないこと。
3 雪渓はコンクリートのように固いので危険であるから、決して近よつてはならないこと。手でさわつたりしてはいけないこと。
そして、山納義民教諭は、富田信三教諭の横に立つて、前夜のメモを見ながら注意事項を告げるのに手落ちのないことを確認した。
なお、白馬大雪渓に向う途中、飯盒炊さんの予定地長走沢口で、山納義民教諭は、体の調子の悪い生徒一名とともに、同所にとどまつた。
七、同日午前一〇時頃、B班の生徒は白馬尻小屋の上方約五〇〇メートルの地点に到り、同所で生徒全員を整列させた後、そこにしやがませて、山案内人中村孝光から、雪渓の成因、厚さ、性質、雪崩等について説明をした後、落石、雪渓の危険な状況についても説明し、雪渓はこの付近からでも見えるから近づいてはならない、雪渓の上に乗つたり、石を投げたりしないようにとの注意があつた。
続いて、富田信三教諭も、右中村孝光の注意をよく守るようにと告げ、なお、立つている位置から数十メートル位離れた附近を手で指しながら、集合地点(解散地点と同一場所)からあまり離れず集合の合図のわかる所にいて雪渓を見学するようにと生徒に注意し、一〇時三〇分を集合時刻として告げ、一〇時一〇分頃解散した。
八、その後、倉田正昭の所属していた八組は記念写真を撮る予定がなかつたのですぐに解散し、続いて他の組毎に記念写真を撮つて順次解散し、引率教諭約五名、中村孝光、交通公社職員二名は生徒の行動全般を監視したが、富田信三教諭は解散地点から主として上方部を、他の教諭らは解散地点から主として中央部ないし下方部を監視した。
雪渓見学の間、大多数の生徒は、解散地点、又はそこからあまり離れない付近にいたが、中村孝光は、下方の谷間の方に降りて行つた生徒に対して、浮石(足で踏むとすぐにぐらつく石)に気をつけろ、と注意したり、富田信三教諭は、解散地点から数十メートル上方まで行つた生徒に対して、携帯マイクを使用して、上方の岩から上には絶対に行つてはいけない等と呼びかけて注意したり、又、解散地点からすこし離れた付近を歩きまわりながら、谷間の方に降りて行つた生徒に注意したりしながら付近を監視していた。
九、倉田正昭の属していた八組は記念写真を撮らなかつたため、集合時刻まで時間があつたので、解散後、倉田正昭、荒木、桐畑、今津らは、解散地点から上方に登り、約八〇メートルないし一〇〇メートルの場所で、数個の岩のあつた所を越え、更に上方のやや低くなつて解散地点から見通しのきかない所まで行つた。
その頃、組の記念撮影を終えた四組の生徒ら数名がその付近に来て、更に数メートル谷間の方に降りたところにある雪洞の中に入つて出て来た。その雪洞は地面から高さ二メートル位の所が雪庇となつていて、雪庇の先端はすこしたれ下るようになつており、外側から見ると、その奥の方は日の光が通つて薄くなつていることがわかり、何かのはずみで、何時落ちるかも知れない危険な状態にあつた。生徒の中には、危険な状態にあることを認識しながら、他の生徒も入つているのだから、すこし位の時間なら入つてもいいだろうと考えて雪洞に入つた生徒もいた。
倉田正昭ら四名は、右雪洞に入つて写真を撮ることとし、河原の方へ数メートル下り雪庇の下に入り込んで写真を撮ろうとしたが、自動シヤツターが作動しなかつたので、今津が雪洞から出てカメラに近寄つた時、突然、右雪庇が割れて、数個の雪塊となつて倉田正昭らの上に落ちて来たのである。
この事故は、富田信三教諭が、上方を監視し岩付近にいた生徒に注意した後、解散地点付近を歩きながら谷間の方に降りて行つた生徒の方に目を移してこれに注意し、午前一〇時三〇分近くなり、生徒は集合場所に集り始め、富田信三教諭は、集合の合図をしようと考えていた数分の間に起つたものであつた。
ほかに、右認定を覆すに足る証拠はない。
一〇、右事項によつて、倉田正昭は右前頭部陥没骨折によつて即死、荒木も即死、桐畑は同日午後二時三〇分頃死亡し、倉田正昭らとは別に写真を撮ろうとして近くにいた四組の藤本も負傷したこと、右事故当時、倉田正昭は満一七年三ケ月であつたことは当事者間に争いがない。
第七、過失の有無について、
一、大雪渓の下検分について、前記認定事実によるとき、富田信三教諭らは、五月の下検分の際に見た雪渓を、そのまま状況に変化のないものとして認識したのではなく、雪渓は、その年により、時期により、状況を異にし、危険であることを認識し、修学旅行の具体的計画を検討したものであつて、下検分について注意義務に欠けるところがあつたということはできない。
二、大雪渓の見学について、前記認定した事実によるとき、本件事故は、富田信三教諭ら引率教諭が、解散地点又はその付近にいて、生徒を監視していた際、上方岩のある付近から目を離した数分の間に起つたものである。
一七年余に達した高校二年生は、成人に近い判断能力を有していたとしても、まだ未熟なものがあり、又、修学旅行が研修旅行であるとしても、旅行であれば平素とは違つて浮わついた気持が加わつていたことは否定できず、倉田正昭らは、始めて見る大雪渓に好奇心を持ち、決められた行動についての規制を越えてしまつたものであろうことは想像しうるところである。
もともと、
本件見学は、水泳訓練において水の中に生徒を入れたり、冬山登山において生徒を山岳に登らせるのとは異り、大雪渓を見学することが目的であるから、生徒に雪渓の危険性を理解させ、これに近づかないように監視することが引率者としての最も重要な注意義務の内容であると考えられる。前記認定のとおり、引率者としての教諭の生徒に対する注意は、修学旅行の準備段階においては、一般的、抽象的になされていたものが、その実施にあたり、特に猿倉と解散地点においては、中村孝光山案内人及び富田信三教諭らから、雪渓の成因と危険性について説明があり、近よるな、乗るな、さわるな、石を投げるな、等と個別的、具体的な注意がなされ、おおよその見学すべき場所も指示され、生徒は、これを理解していたと考えられ、かつ、雪洞の雪庇は、外観上から危険であることは充分認識し得られる状態にあつたと考えられる。そして引率者はそれぞれ、全生徒の行動を監視し、個別的にも、携帯マイク等で呼びかけていたのである。
以上のような、引率者の注意と監視の行為を考えるならば、判断力の未熟なものがまだ残り、旅行という浮ついた気持のあることを考慮に入れても、一七年に達した高校二年生という成人に近い判断力を有している者に対する注意義務としては欠けるものがあつたということはできない。右以上に、各生徒についての、全行動についてまで、監視をなすことを要求することは、もはや難きを求めるものといわなければならない。
第八、結び、
以上のとおり、本件事件について、山納義民及び富田信三両教諭に、故意又は過失があるということはできないから、故意又は過失の存在を前提とする原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 下郡山信夫 河合治夫 牧弘二)